「六根清浄」とは、神道にも、仏教にも、修験道にも共通する大切な教えです。そして、おそらく他の宗教や思想でも重要視されていることと思います。
「六根」とは、先日ご紹介した『般若心経』の記載を借りれば、「眼耳鼻舌身意(げんにびぜっしんに)」のこと。つまり、目も耳も鼻も口も身も心も、常に清浄にしておくことが大切である、ということです。
「清浄」といっても、毎日お風呂に入って清潔を保つというだけの意味ではありません。ある祝詞には、こうあります。
目に諸々の不浄を見て心に諸々の不浄を見ず
耳に諸々の不浄を聞いて心に諸々の不浄を聞かず
鼻に諸々の不浄を嗅いで心に諸々の不浄を嗅がず
口に諸々の不浄を言いて心に諸々の不浄を言わず
身に諸々の不浄を触れて心に諸々の不浄を触れず
意(こころ)に諸々の不浄を思いて心に諸々の不浄を想わず
最後の一文が、個人的にはシビレます。「意」を「こころ」と読ませていますよね。「意」と「心」はとかく混同されがちですが、例えば仏教で「意」には「思慮、分別」という意味があります。あれこれと考えるこころの働きのことを言います。また、「意」という漢字そのものには「私意」や「恣意」という言葉もあるように、「勝手な考え方」という意味もあります。「意」を分解すると、「音」と「心」になります。人の、言葉になる前のおもいを指しています。「憶測」の「憶」なんかを見るとわかりやすいですね。
一方、「心」はもっと根本的なものです。目や耳や鼻や口や身体や意思までもを動かすもとになるものです。「魂」とか、最近流行りの言葉で言えば「潜在意識」とか、そういうものに近いかもしれません。見えない力、とでも言いましょうか。だから「信心」には「心」という字を当てているのでしょう。
また、修験道では「懺悔、懺悔、六根清浄」と唱えながら険しい山道を終日歩き続け、修行をするといいます。私たちの日々の中でも、なにか良くないことをしてしまったとき、知らず知らずのうちに罪を犯していること、それらを悔い改めることが必要であることを教えてくれています。
昨今は兎角、間違った正義感とでもいいましょうか、誰かの失敗を暴き、晒し、(第三者までもが)いつまでも責めたてる風潮が蔓延しているようです。それよりも、今後どうしていくか、どうあるべきか、のほうがずっとずっと大事であるはずです。
前述の祝詞は、六根清浄であれば天地の神と同根である、と説いています。そして、清く潔ければ穢(けが)れることなどない、ともいっています。「生き神様」や「生き仏」なんて言葉があるように、人間としての修行の真意は、ここに凝縮されているということができるでしょう。そして、本当の強さとは、そうやって備わるものなのではないでしょうか。
意に染まないことがあっても、心はしなやかに穏やかに、いつも心象風景を明るく清く保ちたいものです。